昔の土木工事

 

北海道開拓と本願寺道路

戦国武将達と土木工事(武田信玄)

戦国武将達と土木工事(加藤清正

戦国武将達と土木工事(豊臣秀吉) 

戦国時代の地侍達と農民

飛鳥・奈良時代の僧侶と社会基盤整備

 

北海道開拓と本願寺道路

     明治維新後、新政府は、ロシアの南下に対処するための、北方警備の強化に伴い北海道の早急な開発を基本方針としました。この北海道開拓に際し、まず、最初に必要とされたのは警備や開拓に必要な人や物資を運ぶための道路を開設することでした。しかし、維新後直ぐに起った戊辰戦争に巨額の出費を余儀なくされ、経済的には、北海道開拓のために経費を振り向ける余裕はありませんでした。そこで、政府は、民間の協力によって道路整備を図ることにしました。
 幕末の尊皇攘夷派と佐幕派の攻防の地は、新撰組の活躍した京都でした。この地にあって、徳川幕府と結び付きの強かった東本願寺の維新後の立場は、明治政府のとった「神道国教化政策」との関連もあってか、微妙な立場に立たされていたことは、容易に推測できます。色々な説はありますが、徳川幕府に加担して朝廷に反抗したとして処罰することを暗にちらつかせながら、東本願寺に「新道開削、教化普及、農民移住奨励」の三点を目的とした北海道開拓を願い出させるように仕向けるくらいのことがあったと十分に推察できます。
 結局東本願寺は、この時自主的に願い出て、4本の道路を開削しましたが、良く知られているのは、松浦武四郎が提案していた現在の国道230号の前前身にあたる札幌市平岸と伊達市長流(おさる)間の約108Km程の中山峠を越える「本願寺道路」、「本願寺街道」、「有珠新道」などと呼ばれる道路でした。
 真宗大谷派東本願寺第二十二世門主現如上人を責任者とする約100名の一門の僧は、1870年2月10日に京都を出発し、東海、東山、北陸、奥羽等の東本願寺の門徒に、道路開削に必要な資金の寄付を依頼したり、北海道への移住を勧めながら7月7日に函館に到着しています。
 工事は、1870年の夏から翌年の10月頃のほぼ1年余りだったようです。工事の詳細を記録した文書は無いようですが、北海道道路史調査会編集の「北海道道路史V路線史編」に拠りますと、1870年9月に東京甘泉堂から発行された「現如上人開拓絵」の内の1枚「北海道新道切開」に、僧侶や半天か野良着に股引姿の人々、アッシを着たアイヌの人達が木を切ったり、川に橋とするための丸太を架けたりしている工事の様子の絵が描かれています。現在の伊達市に入植した仙台藩支藩の亘理藩の藩士達50人や大工などの職人の多かった和田村(現在地は特定できませんでした。)の人夫50人も工事に従事しました。特に、入植後間もなく、生活が安定していなかったと思われる伊達藩の人達にとっては、貴重な収入源であったようです。
道路の幅員は、約3mほどでしたが、一日に100m程しか進めなかったと言う大変な工事だったようです。それでも札幌、伊達間の約110kmを1年半ほどで完成させています。このように苦労して造ったにもかかわらず、幹線道路としては、造りがあまりにも粗末だったことと1873年に函館と札幌を結ぶ車馬道が竣工したこともあって、それほど利用されないうちに荒廃してしまったようです。
(参考文献:北海道道路史調査会編集。平成2年6月1日発行。北海道道路史 V路線史編)

 

戦国武将達と土木工事(武田信玄)

  戦国時代は、徳川幕府が確立され、大名達が家名存続のために幕府の顔色を伺いながらの治世に汲々と過ごす以前の、織田信長や武田信玄など、後の世に名を残す有名な群雄が天下統一を目指して戦いに明け暮れていた時代でした。
 近隣諸国との戦いに勝利し、勢力を広げるためには、兵力の増強が第一でした。少ない勢力で勝てるのは、敵の虚をつく不意打ち以外にはなく、正面衝突の戦いでは、人数が圧倒的に多いほうが勝つのが原則でした。大量動員に必要なものは、財力でした。武田信玄は、黒川金山から産出する金から「甲州金」あるいは「灰吹碁石金」と呼ばれる金貨をかなり沢山持っていたようです。
  
また、農産物は、主要な産物であるとともに兵糧としても必要であり、しかも平常時には、この農作業に従事する者が雑兵として駆り集められて戦闘の主力となるわけですから、米作に必要な治水事業にも力を注ぐのが戦国武将として重要な政策でした。
 
信玄の治水事業の代表として良く知られているのは、「信玄堤」です。竜王町付近で釜無川(富士川の上流)に右岸側から合流する御勅使川(みだいがわ)は、河床勾配が1/60の急流河川なのに、ほぼ直角に近い角度で合流していました。このような急流河川の洪水時の水勢は極めて強いので、合流点の左岸側の堤防を突破って甲府盆地に氾濫して、大きな被害を与えていました。武田信玄にとって、民生安定のためには、この地点の治水工事が重要なことでした。  
 20年ほどの期間を掛けて、釜無川と御勅使川が合流した後、その流れを当初の合流地点の少し上流の左岸側にある「竜王高岩(竜王の鼻とも言うようです)」という高さ145m、長さ50mほどの自然の岩壁に突当らせて水勢を弱めるため、約6kmの新しい河道を掘削して御勅使川の流路を変更しました。さらに、その下流に、竜王高岩に山付けした「信玄堤(しんげんつつみ)」とさらに下流に洪水調節の機能を持った霞堤を設け万全を期しました。
  
信玄堤とともに良く知られているものに{棒道}があります。武田軍団の存在を示す「風林火山」の風が「その疾きこと風の如く」を意味するように、戦闘の際には、迅速に行動することをモットーとしていたと想像できます。軍隊の移動を迅速に行うのが目的ですから当時の道路としては破格の幅員ではなかったかと思われます。詳細は判らないようですが、幅員3mと言われていますので、騎馬でも2列、徒歩なら4列縦隊で楽々と進軍できる幅のようです。9本の道路の内、新設したのは1本で、8本は拡張したようですが、川に架けた橋の数も相当なものでしょうから、領土を確保するためには、莫大な財力を必要としたわけです。その財力のために戦ったのが戦国時代なのかも知れません



戦国武将達と土木工事(加藤清正)

そもそも工学は、軍事工学と市民工学とからなっていました。市民工学は、その後、土木工学、機械工学、電気工学等、種々の部門に分かれますが、当初は軍事以外の全ての工学が含まれていました。高松城の水攻めの築堤や武田信玄が兵員の大量移動のために作った「棒道」などは、軍事工学の代表的なものでありますが、これらの技術は、いずれ一般河川の築堤や道路作りに繋がるもので、市民工学の技術の発展に関しても重要なものでした。
 当時の主要産物は、米であり、安定した生産がそれぞれの領主の力と密接な関係を持っていました。従って、民生安定と増産のために行った治水工事の実績が良く知られていますし、現在もそのころの機能を果たしているものが各地に残っています。
 加藤清正は、領内を流れる白川、緑川、球磨川、菊池川で、河川の付替え、遊水池や越流堤、背割堤などの設置、水制工による流路の安定など様々でしかも高度な土木技術を駆使して治水工事を行い、米の生産量を54万石から73万石へと35%程も増加させ、地域の発展に尽くしました。肥後の国(熊本県)全体の領主として本格的な治水工事を行った期間は、僅か10年あまりでしたが、現在も「清正公(せいしょうこう)さん」と呼ばれ、神様として奉られていることから見ても、極めて効果のある治水工事であって領民から深く尊敬されていたことが判かります。
 加藤清正が治水工事を行ったのは、約400年程前のころですが、上流から沢山の土砂を含んだ河水が下流の流れの弱くなった地点で堆積するのを防ぐために、岩盤の川底を掘り込んで滝壷のような渦が出来るようにした「鼻ぐり井手」などは、水理学などのなかった時代に、よくも考え出したものだと感心します。恐らくは、滝壷の上に立って流れの様子を日がな一日観測して、最適な形状を試行錯誤の結果、考案したものと思われます。

 

戦国武将達と土木工事(豊臣秀吉)

  羽柴筑前守秀吉が備中(岡山県)高松城を水攻めにしたことは、この後の、本能寺の変と明智光秀との天王山における決戦との絡みで良く知られています。この時築いた堤防は、高さ7.3m、天端幅10.9m、底面幅21.8m、長さ2.8Kmで(約4Kmの説もあります。)使用した土俵が760万俵とも635万俵とも言われています。これを12日間で作り上げていますが、現代の機械化施工でも35万㎥の盛土を12日間で施工するのは、容易なことではありません。
   秀吉の出世物語の一つに、清洲城の塀の修理に20日以上掛かっているのを見て、自分から普請奉行を買って出て短時日で完成させ、信長から高く評価された話しがあります。この時は、工区を細かく分け職人たちを競わせたために短期間に完成させることができたもので、この方法は割り普請と呼ばれる方式です。ただし、この方式を秀吉が最初に考案したのかどうかははっきりしませんが、当時としては、最も能率の高い方式であったと考えられます。高松城の水攻めのための堤防工事も同じ方式で実施したものと思われます。お金と米と権力で付近の農民を集めることが可能な時代だからできたことではないでしょうか。その後、同じような方式で、和歌山の太田城を、これより規模の大きな高さ13m、長さ5.8Km程の堤防を築いて攻略しています。
   石田光成が関東の城(行田市の武蔵忍城)で同じような水攻め(この三つは日本三大水攻めと言われています。)を行っていますが、堤防が切れて攻める側に死傷者が出て失敗したことがあり、秀吉の土木技術の高さが伺われるとともに、戦争では費用よりも時間の勝負ですから「金に糸目をつけない」ということで、如何に戦争にお金がかかるかの証でもあります。
   計画的な町造りの大規模な例は、1200年前の平安京や宮城県の多賀城跡の南側の山王遺跡等で知られています。戦国時代に入り、あちらこちらに城が造られるようになりましたが、最初のうちは、防御に適した山頂や山腹等の高所に築いた山城であったものから、次第に水陸の交通に便利な平地へと変わり、城下町を形成し商業の活発な活動を図るようになってきたようです。このような変化は、石垣の構築技術が発達してきたことと関係があるようです。織田信長が築いた安土城がその始まりだと言われていますが、本格的な石垣造りは、秀吉による大阪城の築城であり、その後の冬の陣の際に徳川方20万の大軍に包囲されながら、1月以上も猛攻を支えたことから見ても難攻不落の城であったことが判ります。平地にこのような堅固な城を造ることが出来るようになったことと商業の活性化による経済的発展の重要性が認識され、計画的な町造りが行われるようになりました。
   秀吉が最後に築いた伏見城築城の際には、城下町はもちろんですが、大和街道の整備や舟運のための河川改修、治水対策としての太閤堤・文禄堤の築堤等の社会基盤整備を伴う総合的な地域作りを行っています。このように戦国時代の武将たちは、戦うばかりではなく、地域経済の発展まで考える政治家としての素質も持たなければ国を治められなかったようです。


戦国時代の地侍達と農民

戦国時代の大農地所有者達は、宗家(一門の中心の家)の当主を大将として一族が結束し、農民と武士を兼ねた集団いわゆる「地侍」として自分たちの土地や財産を自衛していました。利害が共通するこれらの地侍が盟主の基に集まり、さらに、これらの盟主を統合した大領主が大名となって統括していました。このように、秀吉が刀狩によって農民から武器を取り上げる「兵農分離」を行うまでは、農民も武器を持っていて、権利を侵害されたときなどには、いつでも闘える状態にありました。
   力のある地侍が、一族の領地を増やし、勢力を高め、富を得るために、周辺の地域を力でもって屈服させ、年貢を取立てることは可能ですが、そのためには、年貢を取立てる代償として安心して農事に専念できるように外敵を防ぎ、治安を維持し、農民達との信頼関係を深めなければ、いつまでも支配できるものではありません。このように、特定の地域を勢力下におくためには、領民達のほうに何らかの利益がなければ、領主と領民の良好な関係が長期間に渉って維持されるはずはありません。
   土地の境界や旱魃(かんばつ)の際の水の配分などにトラブルが発生したときに、それらの問題を互いに不満のないように解決してくれ、平穏な日常生活ができるように配慮してくれる人がいれば、安心して生活ができるわけですから、その人を、領主として立て、その代償として年貢も納めることになってくるはずです。
   この時代の基幹産業は、このような米作りが主体ですから、戦争を有利に進めるために必要な城や道路、橋作りなどは、本来農民にとっては不要であって、それよりは、旱魃(かんばつ)や洪水による被害が出ないような治水工事を施工することによって、作物が支障なく育つ環境作りがなされることを望んだであろうし、生産量の増加が農民を豊かにもするし、年貢の増加にもつながり、領主と農民がお互いに満足したのではないかと考えられます。
   このころの戦闘要員は、戦うことを仕事とする職業軍人としての武士は少なく、最前線に立って戦う兵士達は、地侍の元で日頃は農作業に従事している農民の中から集められた者であったようです。その後、信長が台頭してくる頃に、戦うことを専門の仕事とする軍団が作られはじめたようで、武田信玄の率いる騎馬軍団や鉄砲を持った雑賀(さいが)衆、根来(ねごろ)衆などがその始まりのようです。従って、一旦戦闘になった時に、日頃このような生活の根幹にかかわることに対して地侍から庇護を受けている領民が、自分たちの現状を維持するために命をかけて戦うわけですから、命をかけるにふさわしい見返りの事を領主がしてくれていなければ、戦いに力が入りませんので、領主の日頃の領民に対する接し方が戦闘力を左右したのではないでしょうか。
   戦国武将達が治水工事に力を入れたのは、安心して米作りができ、しかも収量が安定していれば精神的、経済的に農民を豊かにすることができ、それに伴って領内の経済的活力が大きくなることが、ひいては領主達の勢力の安定と増強にも繋がったために、積極的に施工したものと思われます。



飛鳥・奈良時代の僧侶と社会基盤整備

 一般的に飛鳥時代は、仏教の伝来(552年)から平城京への遷都(710年)まで、奈良時代は、平城京遷都から桓武天皇即位の781年までとされています。仏教が伝来したばかり頃のお坊さん達は、お経を読んだり祈ったりするだけではなく、仏教の教えを多くの民衆に広げる必要がありましたが、その布教活動によって、多くの人々から尊敬され、信頼されたと考えられます。人々が不便を感じていることや望んでいることを、大勢の人達がお坊さんの知識と指導のもとで、仏教の教えに従って労働力と浄財の提供を行なって、一致協力して解決に当ったことが、その事実を裏付けています。これらの行動は、「広く民衆を救う」という仏教の教えに基づくもので、社会基盤整備の始まりともいえるのではないでしょうか。
 時代が下がった安土・桃山時代の織田信長と本願寺との石山での戦いは、現代の宗教感からは想像もできないような、当時の仏教に対する仏のためには、身の滅ぶこともかまわずと言ったような熱狂的な信心の深さを窺い知ることができます。このことからも仏教の教えが大きな力を発揮する原動力になっていたと考えられます。
 宇治川に架かる宇治橋は、洪水による流出や幾多の戦乱・戦火に巻込まれて、その度に焼失や破壊を受けながらも、その都度架けかえられて現在に至っています。宇治橋碑文などによれば、1350年以上も昔の大化2年(646年)に奈良・元興寺の僧道登が仏教徒の力を動員して本格的な橋として架けたのが始まりであり、瀬田の唐橋とともにわが国では最も古い橋と言われています。
 これより少し前の616年頃、現在の大阪狭山市にある農業用取水のための狭山池が造られました。発掘調査によって築かれた年代は判りましたが、誰が造ったかは明らかではないようですが、飛鳥時代に続く奈良時代の732年頃に行なわれた第二期の改修工事は、灌漑利水の施設を多く作り、農業生産の向上を指導したとされる行基によって行われたことは判っています。この行基は、行基菩薩と崇められるほど民衆の信頼が厚く、30年ほどの間に、6橋、15池、6溝、2船着場、3樋、4堀、9宿泊所、49寺院を作ったと伝えられています。当初は、これらの活動を為政者側は、「人心を惑わす」ものとして禁止する方向にありましたが、最終的にはその功績を認めて、聖武天皇から大僧正の位に任ぜられています。なお、行基が作ったとされる最初の日本地図は、徳川時代の初めまで用いられていました。
 その後も、空海、空也、一遍、叡尊、忍性、禅海、鞭牛等のお坊さんたちが、国の経済の基になっている米作りをする農民達の貧しさや苦しみを取除くことが国を守り、栄えるために大切なことであると考えて、これらの社会基盤整備の仕事に力を注ぎました。

 

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