夢と技術の進歩


津軽暖流による海流発電

大橋猛さんと津軽海峡大橋

技術者と夢

 

津軽暖流による海流発電  

  今では笑い話ですが、1973年10月の第4次中東戦争を切っ掛けとするオイルショックの際には、トイレットペーパーを買い溜めする有り様がテレビのニュース番組を賑わせました。化石燃料のほとんど全てを輸入しているわが国としては、生活をはじめ産業にとっても重大な問題でした。この石油危機を契機として、政府は石油備蓄を図るとともに、石油エネルギーに変わるエネルギー源として、自前で賄うことの出来る自然エネルギーの利用・開発に力を入れるようになり、これらの研究が大いに奨励されるようになりました。太陽光や地熱などのほかに、海流にも目を向け、黒潮の包蔵エネルギー量が科学技術庁などで研究されたりしました。
  日本付近の海流には、黒潮、対馬暖流、津軽暖流、宗谷暖流、親潮などがあります。これらの海流が持つエネルギー量は、無限でしかも莫大なものであろうというのは容易に判りますが、最大の欠点は、単位面積当りの量が少ないことや季節や時間によって大きな変動があることなどにあります。しかも、発電施設をどこに、どのように設置するかが大きな問題になります。データが少ないので正確ではありませんが、津軽暖流の持つエネルギーの総量は、私の計算では、黒潮ほどではないまでも、単位面積当りの量は多いようです。
  ビル風などで体験しているように、気体や液体などは、広いところから狭いところへ流れ込むときに流速が増す性質を持っています。津軽海峡は、函館の少し東にある戸井町と本州の下北半島先端の大間町の間は約19kmと狭まっていて、この部分では流れが速くなっています。一番深い部分の水深は、約250m程ですが、津軽暖流の本流は、これより浅い水深100〜150mのところを流れています。黒潮の本流は、陸から数10〜数100km離れていますので、発電施設を設置するには津軽暖流の方が実現性が高いことになります。「本州・北海道架橋を考える会」では、この戸井・大間町の間に本州と北海道を結ぶ橋を架けることを提唱し、実現するための活動をしています。この橋の橋脚に発電施設を設置することが出来れば、発電単価は、かなり安くなり採算が取れるものと考えています。なお、この部分を堤防などで狭めると流速が高まり発電量も多くなりますので、その様子を知ろうとコンピューターでシミュレーションをしてみましたが、流速は速くなるけれども、陸奥湾や日本海側の水位が高くなることが判りました。函館や青森市の一部が水没するかもしれませんので、この方式はダメだということになりました。
  海流発電については、幾種類かの方式の提案はありますが、潮流と違って岸から離れたところを流れていることもあって、実際に海流中に設置した実験が行われたことはないようです。潮汐によって発生する潮流は、海流と同じような性質のものですが潮位の変化によって流れの方向が反転するところが海流と違います。日本には、鳴門の渦潮で知られる鳴門海峡や来島海峡など流速の早いところが沢山あります。これらの地点では、徳島大学や日本大学の木方先生による実証実験が行われたことがありますが、実用化するところまでは行っていません。
  海流発電は、化石燃料がいよいよ枯渇しそうになった時でなければ真剣に取組まれないのでしょうが、それまでにも地道な研究が必要なことは言うまでもありません

 

大橋猛さんと津軽海峡大橋

 津軽海峡に本州と北海道を結ぶ橋を架けようという話しが活字化され広く世間に対して提案されたのは、本州四国連絡橋エンジニアリング社長であった吉田巌さんが1990年11月号の「道路」に「ジブラルタル海峡と津軽海峡と」を発表したときが初めてでした。その後、1991年2月、土木学会北海道支部論文報告集に大橋猛さんが「青函連絡橋の夢検証」を、翌年、函館高専土木工学科教授、番匠勲の「津軽海峡における海流発電および横断道路計画」また開発土木研究所月報1992年12月号に北海道開発局の小長井宣生さんが「北海道〜本州間の交流ネットワークの現状と課題」発表されました。その後しばらくの間は目立った動きはありませんでしたが、大橋さんが函館開発建設部の次長として、津軽海峡に面した函館市に赴任されたことによって、その情熱で揺り動かされた渡島地方の有志の間で急速に実現に向かう動きが高まりました。そして、1994年2月に、当社代表取締役の福西秀和さんを代表幹事とする「本州・北海道架橋を考える会」の発足がその第一歩で、夢の実現に向けた活動を開始し、その後も地道に、息の長い事業を積み重ねながら現在に至っています。
  大橋さんは、1994年の初めに大腸癌の手術をしました。肝臓などへの転移もあり1998年6月21日に49歳の若さで逝去されるまでの間、津軽海峡大橋の実現に夢をかけ、その著書「北海道飛躍のシナリオ」と「新・北海道飛躍のシナリオ」(いずれも株式会社クレオ・ムイナス発行)の中で津軽海峡大橋の必要性と技術的諸問題について種々の観点からあふれるような情熱を持って述べています。特に、癌と闘いながら書いた「新・北海道飛躍のシナリオ」の巻頭にある次の詩は、自分の果たせない夢の実現を同じ夢を持つ大勢の仲間達に託すための励ましの言葉であり、隠された無念さが読み取れるだけに、涙なしには読めないのは、私だけではないのではないでしょうか。

ANYTHING'S POSSIBLE
―不可能はない―

夢のない人生はつまらない。
それと同じように、まさに夢のない地域はつまらない。
北海道にどれだけの夢を生み出す人がいるか、
夢を見つけ出す人がいるか、
それが北海道の将来の明暗を分ける指標の一つである。
技術は夢を現実にする力を持っている。
技術者は夢ビジネスの中で生きている、いや生かされている。
技術者が夢を捨てたら、もはや技術者ではない。
ANYTHING'S POSSIBLE(不可能はない)は、
技術者のモットーにもすべき言葉である。

 大橋さんの遺志を受けて津軽海峡大橋を実現することが、大橋さんの情熱に応えることであり、安らかな眠りを保つために最適な鎮魂歌でもあるのではないでしょうか。

 

技術者と夢

 現在の身の回りを見回して見ると、当たり前過ぎて日常はほとんど有難味を感じませんが便利なものが満ち溢れています。空を鳥のように飛びたいと工夫した道具を身につけて高いところから飛び降りて怪我をした人や命を失った人がいましたが、それらの人達の夢が飛行機の発明に繋がりました。疲れを知らず、どこまでも速く走れる馬の変わりにというのが自動車になりました。タイプライターが発明されたとき「私は字が書ける。」と憤然とした人がいたそうですが、今では、パソコンのキーボードを叩いて仕事をしなければならない時代になりました。最近は、技術者の夢を実現するよりは、世間一般の要望に応えて開発することの方が多くなりましたが、技術者が夢を持ちそれを実現するために情熱を傾けることが快適な生活を実現するための進歩に繋がっています。
 深い谷の対岸へ簡単に渡りたいというのが蔓(かずら)橋になり、さらに色々な形式の橋を経て明石海峡大橋のような長大橋の完成につながったように、土木の世界にも夢が必要です。本州四国連絡橋(瀬戸大橋)を提唱した人は、「馬鹿か気違いか」と言われました。青函トンネルを掘ろうと言った人は、「ほらふき」と馬鹿にされました。明石海峡大橋の調査費を議会に提案した明石市長の原口氏は、「すべからく夢がなければなりません。」の一言で議会を説得しました。このように、いつの時代でも夢を持つことが技術の進歩につながりますし、これらの夢は実現し、使用されています。
 いま、津軽海峡を跨いで本州と北海道をつなぐ「津軽海峡大橋」を架けようという夢を持った仲間が集まって作った「本州北海道架橋を考える会」があります。当然の事ながら「なにを馬鹿な!」と言う声もありますが、そんな声にもめげずに頑張っています。夢が実現するまでには、かなりの年月が必要でしょうが、あせらず地道に夢の実現に向かって着実に進もうとしています。大勢の方々の応援が夢を実現するための大きな力になります。ぜひ趣旨に賛同して応援してください

 

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