土木技術者の小説

土木技術者を主題とした小説の概要

     曽野 綾子   湖水誕生     青函トンネル編集委員会編 青函トンネル物語 

    渡辺  淳一     峰の記憶     田村 喜子    北海道浪漫鉄道

    杉本 苑子   孤愁の岸          田村 喜子    京都インクライン物語

    吉村  昭   高熱隧道      新田 次郎   剣岳(点の記) 

 

 

  曽野  綾子         湖水誕生                                           中央公論

高瀬川水力開発をテーマに、高瀬ダムの工事が始まってから7年間の歳月をかけ、途中で目の病のために約2年半のブランクを余儀なくされたが、その後も取材を続け、取材を始めてから完成まで13年掛かって描いた記録小説風の作品で、「土木事業の意義と土木技術の基底に存在する哲学及び、宗教的な意味を広く世に問いかけ、紹介した作品」として、昭和61年度の土木学会著作賞を受賞している。徹底した取材態度と、それによって得た土木技術に対する知識の深さに驚かされる。また、現在では考えられないことかもしれないが、家庭を離れて山奥で工事に従事する技術者たちが、幸せな家庭を維持することに苦労している有様もリアルに描かれている。

青函トンネル編集委員会編     青函トンネル物語                 吉井書店

津軽海峡に海底トンネルをと最初に提案した人は定かではなく、大正十二年に函館市議を勤めたことのある阿部覚治氏が「大函館論」の中で述べているのが最も古い記録と言われている。この後の昭和三十九年五月に北海道の吉岡で調査坑の掘削が始まるまでの間の、発案から調査、鉄道建設公団設立の経緯や工事に着手してから順調に掘削が進むまでの苦労、大出水時の対応、先進導坑貫通の際のエピソードなど十九年に渉った工事に携わった人達の寄せた記録に基づくもので、多くの人々の努力と苦労がしのばれる工事報告とでも言うべきもので、多くの技術者たちが冷静な態度で工事に臨んだ様子が伺われる優れた作品である。
   青函トンネルの開通を間近に控え、連絡船の廃止が叫ばれたころ、トンネルの安全性に危惧を抱いた人達にもぜひ一読してもらい、トンネルを通過する際には、わが国のトンネル技術の高さに思いを寄せてもらいたいものである。

 渡辺  淳一        峰の記憶                                                             文芸春秋
          
  
大雪山系を貫く縦貫道路の建設に携わる北海道開発局の工事現場の所長が抱く自然保護と工事進行に関する考え方を主題としたものです。自然保護と生活の利便性や経済の活性化のための開発との接点の求め方。施工担当者として自然を出来る限り破壊しない工法の選択と工費や施工業者あるいは上司との意見の食違い。現実にはありえないと思われることですが、監督の指示に従わない施工業者の存在。工事現場で種々の要求をする自然保護団体の人達と回答する権限のない現場責任者との話しの行違いや両者の考えが平行するとき、その場で処理することの難しさなどが良く描かれています。開発イコール自然破壊であり、自然環境をありのままに保全しながら快適さを求めることは不可能なことであり、環境保全のためには、利便性をある程度捨てなければならないことを理解してもらわなければ、土木の仕事はできないということを考えさせられる内容です。また、開発局の人事等についてもリアルであり、わざわざ「あとがき」をつけてフィクションであると断らなければならないほど実話のように思える小説でもあります。

 
  
田村  喜子        北海道浪漫鉄道                                             新潮社

琵琶湖疎水を完成させた田辺朔郎が、京都府知事から第4代北海道長官に転任していた北垣国道の要請を受けて、6年間勤務した帝国大学工科大学(東大工学部の前身)の教授の座を捨てて北海道の鉄道建設に従事した物語です。蝦夷と呼ばれていた北海道を文明の地に変えるために必要なものは、1600Kmに及ぶ鉄道の建設でした。明治25年頃の北海道の鉄道は、小樽から札幌を経て滝川までと岩見沢から室蘭に至るもので、これらはいずれも私鉄でした。岩見沢から旭川までは、樺戸集治監の囚人によって道幅3間(5.4m)の上川道路が築かれていました。しかし、馬車による物資の輸送は、屯田兵などによる入植者の増加に対応しきれないのが実情でした。開拓に必要な大勢の人と大量な物資の輸送のために敷設する鉄道のルートを踏査する必要がある訳ですが、当時の蚊、虻(あぶ)、蚋(ぶよ)がはびこる果てしない未開の地での調査の困難さは想像を絶するものであったという様子を知ることが出来ます。旭川から釧路、帯広、襟裳岬、様似、勇払を経て札幌までの約1200Kmに及ぶ馬による現地踏査や石狩と十勝を結ぶベストルートの峠を発見し狩勝峠と名付けたことなど全道を自分の足て踏査し、工事を完成させるまでの事柄が克明に描かれています。

 杉本 苑子  孤愁の岸                   講談社    

濃尾平野を流れる木曽川、長良川、揖斐川(当時は伊尾川)の三川は、古くから氾濫の多い河川で治水に苦労していました。幕府は、宝暦3年12月(1753年)、薩摩藩に莫大な工事費(総費用40万両、約300億円)を負担させることで財政的に破綻させ、勢力を削ぐ目的で、木曽川と揖斐川の分流堤工事の他4個所の河川改修工事を請負わせました。難工事を請負わせられた薩摩藩藩士達が、藩の財政と幕府・地元住民の嫌がらせに耐えながら取組んだ「宝暦治水工事」が主題で、技術が低いながらも既に土木専門業者がいたことや政治に振回される藩士たちの苦悩等が描かれています。なお、この分流堤に喜びと恨み辛みの複雑な思いのこもった完成記念と自害者・病死者の霊を慰めるために、郷里から取り寄せた日向松を植えました。これが「千本松原」として現在も残っていますし、分流堤としての機能も充分に果たしています。  
  明治維新は、100年以上も後の出来事ではありますが、この時に受けた屈辱と悲惨な生活の様子が語り継がれ、積年の恨みが、大政を奉還したにも関わらず、徳川幕府を朝敵として徹底的に痛めつけるということになったのではないだろうかと想像してしまうような、涙なしには読まれない物語です。

田村  喜子   京都インクライン物語                    新潮社   

土木の応援者と自認する著者が、土木と関わる切っ掛けになった第1回土木学会著作賞を受賞した作品で、明治維新の遷都によって、千年にわたって保ってきた首都としての地位を奪われ疲弊した京都の活性化のために計画された琵琶湖疎水の工事に携わった田辺朔郎の物語です。第三代知事に就任した北垣国道は、遷都によって寂れた京都を産業都市として立ち直らせるために必要な動力源を琵琶湖の水に求めることにしました。この計画は、秀吉や家康をはじめ何度か企画されましたが、いずれも日の目を見ることはありませんでした。知事は、琵琶湖疎水計画実現を政府に陳情している中で、工部大学校(東大の前身)の学生田辺朔郎が卒業論文として別個に琵琶湖疎水計画に取組んでいることを知りました。お雇い外国人の助けを借りることなく日本人だけでこの大工事を完成させたいと考えていた知事は、この工事の責任者として卒業したばかりの田辺朔郎を任命しました。実務経験がなく、外国の文献を唯一の手掛かりとしながらも、見事に遂行していく有様やわが国最初(世界でも2番目か3番目)の水力発電を行なったことなど、田辺青年の技術力の高さや先見の明を知ることが出来る小説です。
 この琵琶湖疎水は、現在も京都市民の生活を支える水の供給源の重要な施設としてその機能を果たしています。

吉村  昭    高熱隧道                           新潮社   

現在は、観光コース「秘境黒部峡谷トロッコ電車とアルペンルート」の目玉となっている昭和11年8月から4年間に渉って、233名の事故死者を出しながらも、戦時体制の中で強行された黒部第三発電所の工事用トンネル掘削の様子を描いた小説です。着工前の準備段階から、切り立った崖の岩肌を削って作られた道と言うには程遠い通路による工事用資材運搬作業の困難さ。予期しない巨大エネルギーを持った雪崩によって87名の労務者とともに580m飛ばされて破壊した鉄筋コンクリートの宿舎。現在では到底許可されない温泉地帯の最高166℃にも達する高温な作業環境におけるトンネル掘削の有様や高温地熱によるダイナマイト暴発事故の際の死者の処理などをリアルに描いたもので、小説というよりは記録文学と言うべきジャンルのもので、昭和42年5月に発表されたこの小説を読んで感動し、土木技術者を目指した者が大勢いると言われています。しかし、最近の若者なら「こんなことまでなぜやらなければならないのか。」と逆に土木技術者という職業が敬遠されてしまうのではないかと思われる内容でもあります。

新田 次郎   剣岳(点の記)                      文芸春秋

明治40年頃の日本では、中部山岳地方の五万分の一の地形図が未完成でした。この地方の地形図の作成にともなう、当時日本に残る唯一未踏峰と考えられていた剣岳山頂の三角点設置に従事した測量技術者達の登頂にまつわる小説です。この時代の測量は、陸軍参謀本部陸地測量部の所管であったため上層部は軍人でした。従って、測量のための登頂ではありますが、上層部の軍人達にとっては、新しく出来た日本山岳会との剣岳への初登攀(とはん)先陣争いの方が最大の関心事であったようです。そのために、日本山岳会より先に登頂することが暗黙の至上命令であったようです。登ってはならない山という地元の山岳信仰の抵抗などもありましたが、本来の目的である三角点の選点作業の傍ら登頂ルートを探すのですが、中々見つかりませんでした。しかし、苦労の結果何とか日本山岳会より先に登頂はしたものの、そこには修行僧と思われる人の登頂跡があったこと。山頂には永久に残る三等三角点ではなく暫定的な四等三角点しか設置できなかったことなどが上層部の興味をそいだのか、従事した測量技術者達が報われることは何もなかったなど、測量隊の登頂に絡む苦労話を描いたものです。

 

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